• 小山 美砂 [こやま みさ], 2025: 気象学者 増田善信 — 信念に生きた101年。本の泉社, 261 pp. ISBN 978-4-7807-2278-9.

2025年 9月にで四六判 縦書きのペーパーバック。わたしは2025年10月に新刊情報を検索していて本書の紹介を見つけ (増田善信さんが亡くなったことを知ったのもその紹介文からだった)、注文した。

増田 善信 [よしのぶ] さん (1923-09-11 – 2025-06-09) の oral history である。本人が原稿に手を入れて自伝として発表する構想だったらしいが、本人が亡くなったので小山さんの著書の形になった。本書のなかでの「わたし」は増田善信さんである。

【わたしの文中で善信さんをどう呼ぶか、迷う。きちんとのべるならばフルネームで「増田善信さん」というしかないが、短くのべたいときもある。わたしが「マスダさん」と言ったらわけがわからなくなる。「ヨシノブさん」では、1960年代に子どもだったわたしにとっては、誘拐事件被害者を連想してしまう。だれかが (面とむかってではなく、第三者として論評するとき) 「ゼンシンさん」と呼んでいた記憶があり、わたしもそう呼びたくなってしまう。僧侶や漢学者あつかいしたわけではなく、「前進」とのごろあわせでもなかった (わたしのアクセントでは「前進」は平板だが「ゼンシンさん」はゼを高く発音する。)】

わたしとみょうじは同じだが、親戚ではない。わたしの父は善信さんと同世代 (やや若く、軍に行かなくてすんだ) でもう亡くなっているが、静岡出身である。

わたしが大学院生だった1980年代前半は、善信さんが定年前、つくば移転後の気象研究所につとめていた時期にあたっており、多少の面識はある。わたしからみた善信さんは、数値天気予報の発達に貢献した人である。ただし、わたしは数値予報については (若いころの善信さんの同僚であった) 岸保勘三郎教授から直接ならっているので、善信さんの1981年の著書は知ってはいるがとおして読んでいない。】

善信さんは、京都府の日本海側の農村で生まれ、(旧制)中学校卒業後の1941年4月に、(中央気象台の傘下になっていた) 宮津測候所に就職した。それから中央気象台の気象技術官養成所 (のちの気象大学校) で学び、海軍に配属されて山陰の海軍航空基地で終戦をむかえた。宮津測候所にもどり、気象技術官養成所の研究科で学んで、東京の高円寺にあった気象研究所に異動した。

若いころの研究の内容は、数値天気予報の技術開発である。気象庁に計算機がはいるまえから、富士フイルムのFUJICなどの計算機を借りて、台風の進路予報にとりくんだ。(その件は 有賀 (2016) の科学史の論文にも出てくる。) 1959年に気象庁はIBMの計算機を導入した。予報の計算機プログラムもアメリカから導入しようとしたが、その日本の事例についての性能がよくなかったので、基本からつくりなおすことになった。本書111ページの議論は、アメリカのプログラムは低気圧が発達するばあいに特化していて、単純に渦が流れるばあいの性能が低かったので、そちらを重視したモデルをつくった、ということらしい。112ぺージの「自動的に天気図をつくるためのモデル」は、そのモデルをつくった話と、モデルの計算結果をラインプリンタで図化するプログラムをつくった話がまざっていると思う。

善信さんが数値予報にとりくんでいた途中の1954年に、ビキニ環礁の水爆実験による被ばく事件があった。善信さんは、核実験反対の社会運動にもかかわり、また、核兵器が火山噴火と同様に冷害などの異常天候をもたらす可能性 (その大規模なものがのちに「核の冬」といわれる) についての研究もはじめた。

そして本書では、善信さんが労働組合活動に熱心であり全気象労働組合の執行委員長をつとめたこともあること、また共産党員としても活動していたことも、積極的に回顧している。

気象庁定年退職後は市民の科学者として活動した。そのなかで重要な業績として、広島の原子爆弾のあとの「黒い雨」の被害地域の見なおしがある。日本政府は、原爆被爆者援護の対象に、放射性物質をふくむ「黒い雨」をあびた人もふくめるようになったが、その範囲を、被爆の年のうちに書かれ1953年に発表された文書にふくまれた「降雨図」にある単純な曲線によってきめていた。官僚の判断には、爆発の被害と同様に、爆心地を中心に同心円状に距離に応じて弱まるという観念があったにちがいない。しかし雨がどこに降ったかはもっと不均一だ。善信さんは「降雨図」のもとになった資料にさかのぼり、さらに、証言を集めて、「黒い雨」が降ったところのひろがりをきめなおした。その結果は日本気象学会の『天気』に1989年に発表された。しかし新しい知見を政策に反映させるのには訴訟が必要であり、運動はなお続いている。

この件には因縁がある。広島で被爆直後に調査をして報告書をつくったのは、当時広島の気象台の技師だった 宇田 道隆 さん (1905-1982) だった。宇田さんは海洋物理と水産にわたる海洋学の専門家であり、わたしは岩波新書『海』の著者として、また、寺田寅彦についての本の編者として知っている。善信さんは宇田さんを尊敬し、息子さんに同じ名まえをつけたほどだった。善信さんは宇田さんが「降雨図」にいたるまえにくわしい資料を検討していたことを知っており、それをさがした。運よく、それは東京海洋大学に残っていた。それが発掘されたのは、善信さんの執念のおかげにちがいない。

いま検索すると、つぎのウェブサイトがある。本書をきっかけにつくられたようだ。
気象学者 増田善信 人と業績 https://masudakishou.org/
運営：増田Web委員会、代表　増田道隆

文献

• 有賀 暢迪 [のぶみち], 2016: 台風の数値予報の始まり、あるいは黎明期の計算気象学における問題意識の連鎖。科学史研究 (日本科学史学会), 54巻, 276号, 314-326. https://doi.org/10.34336/jhsj.54.276_314 [この論文をふくむ号の読書メモ]
• 宇田 道隆, 菅原 芳生, 北 勲, 1953: 気象関係の広島原子爆弾被害調査報告。日本学術会議 編 『原子爆弾災害調査報告集』 第1分冊, 日本学術振興会, 98-135. (PDFファイルがつぎのところにある https://www.mhlw.go.jp/content/10901000/000755104.pdf )
• 宇田 道隆, 1939, 1953, 1969: 海 (岩波新書)。岩波書店。
• 宇田 道隆 編著, 1975: 科学者 寺田寅彦 (NHKブックス 225)。日本放送出版協会, 287 pp. [読書メモ]
• 増田 善信, 1981: 数値予報 (気象学のプロムナード 3)。東京堂出版。
• 増田 善信, 1989: 広島原爆後の “黒い雨” はどこまで降ったか。天気 (日本気象学会), 36: 69-79. https://www.metsoc.jp/tenki/ から検索してPDF取得可能。

折りかえしのあとに目次をつける。

===== 目次 =====
[口絵写真]
本書について /2025-09 本の泉社
目次
はじめに
第1章 気象との出合い
– 農村の子にうまれて
– 進学のため — 両親の決断
– 1円でも高く売れる米を
– 受験失敗を繰り返す
– 宮津測候所へ
– 「駆け足」の毎日
– 運命を変えた虹の輪
– 漁師に伝えた天気予報
第2章 天気予報が消えた
– 軍艦マーチを聞きながら
– 気象技術官養成所へ
– 「気象学の父」岡田武松から受け取ったこと
– 海軍入隊
– 海軍気象学校でいじめ抜かれる
– ベッドに隠れて少尉に任官
– 「テンプラ」に憤り
– 夕焼けに消えた爆撃機
– 「神風は吹かない」と言えなかったから
第3章 挑戦と変革
– 八重桜の下、生き方が変わった日
– 毎夜のデートの末に
– 反核への目覚め
– 「核の冬」研究の先駆け
– 青春を謳歌した「NPグループ」
– 日本初の電子計算機を使って
– 数値予報の失敗と教訓
– いかに仕事と生活を両立させたか
第4章 西へ東へ、無人島へ
– 「ベトナム戦争反対」の声が高まる中で
– 国交のない中国・北京へ
– 「計算機は道具です」
– 労働組合委員長に就任
– 南の島に浮かぶ孤島へ
– 蟹の匂いとバリケード
– 「合理化」に抗って
– 情熱は人を生み、智は人を育てる
第5章 「黒い雨」を追って
– 「核の冬」が広がる中で
– 運命の出会い
– 涙ながらに読んだ幾多の証言
– 奇跡的な宇田資料の発掘
– 現地調査へ
– 「増田雨域」の完成
– 「科学的・合理的な根拠」に阻まれて
第6章 市民とともに地球を守る
– 酸性雨調査研究会
– 「二つとない地球」への思い
– 市民の発想と行動力に驚く
– 早期ガン切除手術
– 「異常気象学」の提唱
– 原発事故 — 3カ月前の警告
おわりに
– 「黒い雨」訴訟に涙して
– 「代のため人のため」に命を捧げる
増田さんの遺言 /権上かおる
解説 /小山美砂
参考文献
増田善信 自分史年表
===== ここまで =====